タクシー
向島けい
手を付けた仕事にはいっこうに終わる気配はなかった。諦め半分で作業の区切りをつけ、資料で重くなったバッグにノートパソコンを押し込めて表に出た。しらじらと空が明けはじめていた。歩きながら車を拾おうとしたが、この時間、走る車はほとんどなかった。前方の大きな交差点まで来て暫く待つていると、空車のマークを点灯させたタクシーが右折レーンで、ウインカーを出して、停止した。信号がグリーンの矢印に変わると同時に手を挙げてこっちに呼んだ。
何かタクシーの動きがおかしかった。いったん加速するような動作で通過するのかと思ったとたん、メリハリのない動きになって目の前をふらふらと通り過ぎ、10メートルほど先の中途半端な路肩に、乗せるのか乗せないのかわからないような素振りで停車した。一瞬あっけにとられながらブレーキランプの方向に近寄っていくとドアが開いた。運転手は、初老で、真面目そうな眼鏡をかけたおじいさんだった。
行き先を告げると、よろよろと走り出しはじめた。
「仕事ですか?」
「はい、、まぁ。」
「大変ですね、こんな時間迄。」
といいながらおじいさんは、片手にハンドルを握ったまま、助手席のタッシュボードをまさぐりはじめた。車は暖満で危なかしい走りになっていた。一瞬、乗った事を後悔した。次の交差点の信号が黄色に変わり、車は停車した。スムーズに走っていればパス出来たタイミングだった。
「何してるんだろ。早く行けばいいのに」と心で思うと、ため息が出た。すでに苛つきはじめていた。
ダッシュボードから出したのは、懐かしい形をしたブリキの缶だった。
「ひとつどうですか」
手元に寄せて蓋をあけ、おじいさんは前を向いたまま、後ろでで缶を差し出し、そう言った。
懐かしい缶に入っていたのは、果物の形をしたドロップだっだ。
はっとした。
突風が身体の中を通り抜け、我に返ったような感覚になった。
「俺はいったい、なにに、そんなに、急いでいるんだろう」
スピードで結果を出し、怒る事で存在を表現し易いのが、昨今のビジネスの現場なら、このおじいさんの動作は何を表しているのだろう。
全速力で崖っぷちを走っているような仕事の仕方で、踏み外しては石にかじりつき、落ちない様にしがみついている、いまの僕に、こんなにも穏やかな瞬間を誰かに与える事ができるのだろうか。
衝撃だった。と同時に大きな癒しの空気に包まれた。
後ろに手をまわしたまま、おじいさんは再び、車を走らせた。
缶からドロップを一個つまみ出した。
「ありがとう。。」
僕の声は耳に届いたのだろうか。彼は、前を見て運転していた。缶を持った手をそのままにしながら、彼は、もう一言付け加えた。
「ひとつでいいんですか?」
(了)
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