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ショート小説/「裸の彼女」

裸の彼女  

 

鈴木裕美

            

 今日、僕は仕事でミスをした。ピザの配達途中で道に迷ってしまい、お届けに30分以上かかってしまったのだ。午後から半休をもらう予定で、なんとなくウキウキしていたのに、お客様と上司に怒られ、お届けが遅れた分を給料から引かれ、散々な気分になっていた。

 会社からの帰り道、僕はスクーターを飛ばす気にもならず、近くの商店街を徐行運転していた。
商店街の途中には、踏み切りがあった。僕の家は踏み切りの向こう側。下向き加減で人の歩く後についていく。真ん中あたりで、踏み切りの警報が鳴りだした。
渡り終えて、何気なく振り返ると、80歳位のおばあさんが買い物用の手押し車を押している。
<あれ、危ないんじゃないか?>
踏み切りの棒が、おばあさんの前に降りてきた。手押し車は踏み切りの外に出ているが、肝心のおばあさんは踏み切りから出られなくなっている。スクーターを脇に置いた僕は、おばあさんの前の棒を上げ、手押し車を引っ張った。おばあさんが転んだとしても、踏み切りから出てもらうのが先決だと思ったのだ。おばあさんの体を僕が支えた時、周りから拍手が起こった。気がつかなかったが、近くにいた人達も、おばあさんのことを心配して、見ていたのだ。
僕は人から称賛されることに慣れていない。照れ隠しに、おばあさんに話しかけた。
「大丈夫ですか?」
「はい。どうもありがとうございます。こんな、おばあさんを助けてもらいまして。本当に、ありがとう」
「じゃ、僕はこれで」と行こうとしたら、おばあさんの体が振るえ出した。
「嫌になっちゃうねぇ、これだもの。年をとると体がいうことをきかないのね」
僕は家に帰るだけで予定がなかったから、「おばあさんの家まで送りましょう」と申し出た。
「あらあら、いいんですか? 悪いですね。若いのに親切にしていただいて、すみません」
  <とにかく無事におばあさんを送り届けよう>
そう思って、並んでゆっくりと歩き始めた。場所を知らないのだから、後をついて行くしかない。一歩ずつ、しっかりと歩き始めたおばあさんは、少しうれしそうだった。

「ここなのよ。どうもありがとう、送ってくれて。せっかくだから、上がってお茶でも飲んでいきなさい」
「いえ、そんな。結構です」
「あら、忙しいの?」
「いえ、そんなことはないですが」
「じゃあ、いいでしょ。あがって行きなさい」
強くすすめられて、僕は<ま、いいか。暇だし>と思って、おじゃますることにした。

「まあまあ、家には孫くらいしか人が来ないから。若い人がいると、うれしいわね」
「そうですか?」
「ゆっくりしてね。今、お茶を入れるから」
「はあ」
玄関を上がり、すぐ右手のリビングを通り、たたみの部屋に通された。そこにはコタツがあり、器にみかんとリンゴがあった。僕はコタツに座り、手持ち無沙汰で、部屋をながめた。障子に日が当たって明るい。6畳間の真ん中にコタツがあり、障子の向かいが押入れ、右側の壁に絵が飾ってあった。
その絵は、幼い女の子が思いっきり笑っている。僕には芸術はわからないが、ピンクや黄色、黄緑などの色とりどりに描かれている笑顔に惹きつけられ、見入ってしまった。

「その絵はね、私の亡くなった主人が描いたんですよ。孫の絵なの」
「お孫さんですか」
「主人はね、絵が好きで、子供達に絵を教えてたんですよ」
「へぇー、それはすごいですね」
「全然すごくないの。ただ絵が好きだっただけ。それで食べてきたわけじゃないのよ」
「でも、この絵は、僕は好きですよ。見ているだけで僕も笑顔になります」
「あら、ありがとう。そういってもらうと私もうれしいわ。さ、お茶とお菓子をどうぞ」
おばあさんは、ホールの抹茶シフォンケーキと日本茶の用意をしてくれた。ホール状のケーキを見た僕は、少し驚いた。おばあさんの1人暮らしのようだが、こんなに食べるのか? と。おばあさんは僕の様子を見て、笑顔で言った。
「私は甘いものが好きでね、孫が買ってきてくれるんですよ。一緒に食べようって」
「ああ、そうですか。ケーキが大きいから、どうしてかな? と思いました」
「そうよね。私は和菓子の方が好きなんだけど、孫は洋菓子なのよ。甘いものは嫌い?」
「いえ、実は大好物なんです」
「それは良かったわ。じゃあ大きめに切るわね」
おばあさんは、自分の分は薄めに、僕のはその3倍位に大きく切って、花柄のケーキ皿に取り分けてくれた。
「ケーキだから、コーヒーの方がいいかなと思ったんだけど、抹茶だからお茶にしたの」
普通の湯のみよりもかなり小さいシャレた湯のみに、湯気のたっている白湯が入っている。おばあさんは、小さな湯のみから、少し大きめの器に湯をうつし、土色の急須に入れた。ゆっくりとして静かな動作で、2つの湯のみに少しずつお茶を注いでいく。最後の一滴が出たところで、湯のみを僕の方においてくれた。
「どうぞ」
「はい、いただきます」
口に含んだお茶は、甘くさわやかだった。
<お茶ってこんなに甘いのか?>
ケーキに口をつけずに、お茶を飲み干した。
「お茶を入れましょうね。はい、どうぞ」
僕は、お茶を口に含んで、<あれ? 味が違う!>と思った。おばあさんは、ニコニコしながら僕を見ていた。
「あの、お茶って甘いんですか? 一杯目と二杯目では味が違いますよね?」
「そうね。お茶はそういうものよ」
「え?」
「お茶は入れ方で味が全然違うの。同じお茶で味もいろいろ楽しめるのよ」
「そうなんですか? 全然知りませんでした。こんなおいしいお茶を飲んだのは初めてです」
「あら、うれしいわね。きっとご両親はお忙しい方だったのね。お茶ぐらい味わえないともったいないわよ」
「僕にお茶の入れ方を教えてください」
「いいわよ。じゃ、その前にいただきましょうか、ね」
僕は、ケーキとお茶をよく味わって食べた。お茶の香りがさわやかに鼻を抜けていく。こんなに、ゆっくりと流れる時間を楽しんだことがあるだろうか。僕は、甘いものが好きでよかったと思った。おばあさんとこの時間を分かち合えることがうれしかった。それから、お茶の入れ方のルールを教えてもらい、大事なことは<おいしく入れようとする思いと感覚>なんだと教わった。

あまりの居心地の良さに長居してしまい、部屋が暗くなったのに気づいて帰ることにした。
「おばあさん、長居してしまいました。これで失礼します」
「あらあら、お帰りになりますか。また来てくださいね」
「あの、表札に石原さんと出ていましたよね。石原さんとお呼びすればいいですか?」
「そうね。そうしてもらいましょう。私はいつでもいますからね。今日はありがとう」
「いえ、こちらこそ。ごちそうさまでした。すごくおいしかったです。家でお茶の入れ方を試してみますから。では、失礼します」
石原さんは、玄関の外に出て、僕を見送ってくれた。僕は、幸せな気分でスクーターに乗り、家に帰った。

それから僕は、ちょくちょく石原さんの家に行った。午後から半休をとった時や休みの日の昼間にだ。そこで、石原さんの孫にも会ってしまった。
彼女の名前は、佳奈子。美大に通っているそうだ。石原さんからは、”現代的な変わった子”だと聞いていたが、衝撃的な出会いだった。

その日、僕は半休をもらい、14:30頃に石原さんの家についた。石原さんから「孫が来てるの。会って行ってね」と言われた僕は、少し緊張した。20代前半の美大生。その年頃の女性と接触する機会はないし、”今時の変わった子”から普通すぎる僕がどう見られるのか、全くわからなかったからだ。

「今日はね、ザッハトルテなの。チョコレートケーキは大丈夫かしら?」
「はい。大好きです」
「それはよかったわ。じゃあ、大きめに切りましょうね」
「はい、お願いします」
「カナちゃんの分も切るから、呼んで来てもらえないかしら」
「いいですよ。どこですか?」
「2階のアトリエにいると思うの。右の奥の部屋ね。ケーキが切れたからって言えば降りてくると思うわ」
「はい。じゃあ、ノックして聞いてみますね」

 僕は、緊張しながらも探検するような気分で、トントンと階段を上がった。アトリエのドアをノックして、声をかけた。
「おばあさんがケーキを切ったから、降りてきなさいっていってます」
「はーい。今チョット取り込み中だから」
「え? あの、じゃあ待ってきましょうか?」
「えー、じゃあ、ちょっと待って」
ドアが開いたと思ったら、バスローブの美女が出てきた。僕は、バスローブからのぞく胸の谷間に目が吸い寄せられた。
「今、のってきたところなのよ! でも、まあいいか。下に行くわ。あ、描いてるの、見てく?」
僕は彼女が何を言っているのか、全くわからなかったが、アトリエに入っていいという意味は理解した。彼女について部屋に入り、彼女の作品を見た。色とりどりの上半身の女性の裸体だった。
<あぁ、この感じは見たことがある。あの絵だ>
「どう? この絵。何を感じる?」
「え。えーと、カラフルで明るいパワーを感じます」
「あっそ。それで何を思った?」
「あの、下に飾ってある子供の絵に似てるなぁと」
「ああ、そう思う? ふーん。それであんた、誰?」
「ああ、すみません。川上と申します。川上啓太です」
「じゃあさ、ケイタでいいかな? 呼ぶの」
「え? あ、はい。いいです」
「じゃ、下に行くか」
胸の谷間と裸体の絵。僕は強烈な印象を受けたまま、彼女について行った。

石原さんは、うれしそうに言った。
「じゃあ、いただきましょう。今日はコーヒーにしたの」
コタツに3人で座った。僕の隣に石原さん、その隣にバスローブの彼女。僕は、真正面にいる彼女を見ることができず、ケーキと石原さんを交互に見た。いつもは、ケーキも飲み物もよく味わって食べるのに、この時はただ口に運んだ。味なんてわからなかった。
石原さんから「ケーキのおかわりは、どう?」と聞かれ、「いただきます」と答えた。パクパク口を動かしていたら、鼻がむずむずしてきた。石原さんに「すみません、ティッシュをいただいていいですか?」と聞き、鼻をかんだら白いティッシュが血まみれになった。
「あら、鼻血」
「ほんとだ。鼻血出てるよ」
「チョコレートのせいかしら? たくさん食べさせちゃったかしらね?」
「いえ、そんなことはないです」
僕はチョコレートではなく、彼女から受けた刺激だと思った。
「大丈夫か?」
「ま、カナちゃん。言葉が男の子みたいですよ」
「いいじゃん、別に。鼻血なら、鼻にテッシュをつめといたら?」
「あぁ、すみません。大丈夫です、そうします」
僕は、ティッシュを鼻につめ、かっこ悪い自分が情けなくなった。すると、彼女が絵の話を持ち出した。
「この人ね、私の絵がおじいちゃんの絵に似てるって」
「あら、そう」
「なんかパワーがあるって」
「そうなの。カナちゃん、よかったわね」
「うん。普通の人にそう言われたの、初めて」
僕は、うれしそうに話す2人が不思議だった。絵のことがわからない僕の評価に意味があるのだろうか?
「ねえ、ケイタ」
「カナちゃん、失礼ですよ」
「いいの。ケイタでいいって、言ったよね?」
「はい」
「ケイタ、製作現場を見てく?」
「え、はい。いいんですか?」
「いいよ。なんかさぁ、私に敬語じゃなくていいよ。私も呼び捨てにしてるし」
「じゃあ、なんて呼べばいいですか?」
「んー、カナでいいや。みんなそう言うし」
「わかりました」
「それがさぁ、気持ち悪いって。タメ口でいいんだよ」
「はい」
「ふふふ、川上さん。カナちゃんに気に入られたかもしれないわね」
「えー、ケイタを気に入ってるのは、おばあちゃんでしょ!」
「はいはい」
「じゃあ、上に行こっか」
僕は、ティッシュを鼻につめたまま、カナちゃんの後からついていった。

アトリエに入ると、カナちゃんはいきなり裸になった。白いバスローブを脱いだのだ。正確に言うと、ショートパンツをはいており、上半身裸だった。
僕は狼狽した。立っていられず、思わず床に座り込んだ。目の前にトップレスの女性。しかも、ウエストがくびれており、ヘソが縦型で鑑賞にも堪えられるキレイな裸だった。

カナちゃんは平気で、自分の体を目の前の鏡に写し、それを見ながら絵を描いている。僕の目はカナちゃんの裸を見ていたが、体全体や顔を見ようと努力した。最初の衝撃から立ち直った僕は、集中して絵を描いているカナちゃんの顔に視線を移した。
<真剣だ。この空気を壊してはいけないんだ。だからこそ、ここにいてもいいんだ>

そうして、どの位の時間が経っただろう? 日がかげって部屋が薄暗くなってきた。
「あー、疲れた。今日はここまでにする」とカナちゃんは言った。
「ケイタ、見て。この絵、どう?」
僕は、カナちゃんに呼ばれるまで存在を忘れられていると思っていた。カナちゃんの顔を見ようと努力したが、吸い寄せられるように胸に目が行く。
「悪いけど、カナちゃん。バスローブを着てくれ」
「あ、そうだね」
バスローブを着たカナは、「なんだよ、ケイタ。女の裸は見慣れてないのか?」
「何言ってんだよ。当たり前だろ!」
「ふーん、そうなんだ。悪いな」
「いや、いいけど」
隠されてしまうと、ますます見たくなる気持ちを抑えて、絵を見た。
<色合いがきれいだ。見ていると、なんともあたたかい気持ちになる。裸はエロスだと思っていたがパワフルだ>
じっと絵を見ている僕を見て、カナちゃんは満足気だった。不思議に思った僕は、カナちゃんに聞いてみた。
「なんで、僕の意見を聞くの?」
「絵がわかると思ったから」
「いや、わからないよ」
「うん。絵は知識があるかどうかじゃないんだ。感じるかどうか」
僕は、CMで流れていたフレーズ、”考えるな、感じろ”を思い出した。

僕は、帰る時にも鼻血が止まっておらず、ティッシュをつめたままスクーターに乗った。2人は夕飯を一緒にと誘ってくれたが、そこまで甘えるわけにはいかないと遠慮した。
実は、カナちゃんの裸が僕の目に焼きついてしまい、気が緩むと目に浮かぶ。ヘラヘラしてよだれでも垂らしそうなバカな姿を2人に見せたくなかったのだ。

  雨が降りの続く木曜の昼間、今まで行ったことがない所から、ピザの注文が入った。お届け先は小洒落たマンション。最近の移動はスクーターだから、歩くことが少なく階段を昇らない。まったくの運動不足だ。エレベーターがあってよかった。エレベーターに乗り込み、8階を押す。ピザのお届け先を確認する。名前と住所を聞いた時には気がつかなかったが、配送票の名前を見て嫌な予感がした。店に戻りたくなったが、ここまで来てピザを渡さないわけにはいかない。意を決してチャイムを鳴らした。出て来たのは、素肌にYシャツを羽織った男。嫌な予感的中。
<僕に気づかないでくれ!>、
ささやかな僕の願いは、叶えられなかった。
「あれ? そんなカッコだから気がつかなかったよ! 川上だろ? 俺だよ、俺。アビ−だよ!」
「あぁ、そうじゃないかと思ったよ」
高校の同級生、我孫子克也だった。仲間うちからは「アビ−」と呼ばれてた。
「オ−イ、ちょっと。こっちこいよ!」
アビ−が呼んだ、女だ。僕に女を見せびらかしたいのだ。
「な−に?」と言って出てきたのは、キレイと言えなくもないが、痩せぎすの女。顔がキツネみたい。僕の好みじゃない。
「こいつ、俺の同級生」
「ふ−ん、どうも」
仕方なく僕も「どうも」とあいさつした。
「せっかくだけど仕事中なんだ。悪いな、急ぐんだ」
とにかく、僕はその場から離れたかった。逃げるようにして、マンションから出た。
<あいつ、アビ−が昼間から家にいるとは。どんな仕事をしているんだ? 家にいてできる仕事というわけか? でも、じかにYシャツを着てたぞ。仕事じゃないだろう? いや、わからない。あいつ、僕がノートを貸してやったから、やっと卒業できたくせに>

 仕事が終わり、いつものようにホットモットの唐揚げ弁当を買って帰った。
  普段は自分の将来なんて考えないようにしているが、1人で部屋にいると、どんどんネガティブになっていく。特に今日はダメだ。アビ−と自分を比べてしまう。
<僕は30歳を目前にして、未だにフリーターだし。仕事があったって、人に自慢できないよな。といっても、いまどき就職も難しいし。いや、まだチャレンジしてないことを諦めることはないよな>

 アビ−に会った翌日は、前から休みを入れていた。昨日はむしゃくしゃして、1日1本と決めていた缶ビールを5本飲み、ふて寝した。今日は、その流れで午前中をごろごろして過ごした。午後になり、ふと昨日見た女のことを思い出した。
<顔はキツネ顔。体は細すぎて棒みたいだった。やっぱりカナちゃんの方が何倍もキレイだよな。僕がカナちゃんを連れてたら、あいつも驚くだろう>
なんだかとてもカナちゃんに会いたくなり、これから石原さん家に行こうと思った。

 石原さんを訪ねたら、残念ながら、カナちゃんはいなかった。でも、おばあさんが、お茶でもてなしてくれた。
「この前は、川上さんにカナちゃんが失礼なことをしたそうで、ごめんなさいね」
僕はドキッとした。心当たりはあったが、おばあさんが知っているはずがないと心の中で否定し、「なんのことです?」と聞いた。
「カナちゃんが、川上さんの前で裸になったそうで」
僕は動揺した。
<おばあさんに知られていたなんて!>
おばあさんは、そのまま続けた。
「カナちゃんはかわいそうな子なんです。中学に上がる前に両親が離婚して。あの子、お父さん子だったから、自分の顔も嫌いになって」
「え? 自分の顔が嫌いってどうしてですか? すごくキレイなのに」
「カナちゃんは、母親似なんです。息子はまだ、あの子の母親が好きなようで、カナちゃんに会うのが辛いようなんです。だから、カナちゃんは、母親に似ている自分の顔が嫌で、絵も描かないんです」
僕は、上半身裸の絵を思い出した。
「私たちも悪かったんです。息子の肩をもってしまって。あの子のことを考えたら、中立でいなければいけなかったのに」
「そうですか」
「あの子はファザコンですね。私たちが寂しさを埋めようとしましたけど、親にはなれませんし、ね」
「はあ、そうですね」
「おじいさんがやっていた絵かき教室で、絵を描く集中力があることがわかりましてね。いろいろと教えたようなんです。よく口にしていたのが、世の中で最も美しいのは馬、サラブレッドだって。次は野生の動物。3番目が人の体。絵が上手くなりたかったら、自分の体を描きなさいってね」
<なるほど>と僕は思った。以前見た映画で、すぐ裸になる女が描かれていた。確か、バベルだ。耳が聞こえない女子高生が、母親と死に別れ、父親は仕事に忙しく構ってくれない、そんな状況だった気がする。親の愛情、特に父親の愛が足りないと、男の前で平気で裸になるそうだ。
  カナちゃんの場合、愛情も足りないし、絵が上手くなりたいから、自分の体を描くことになるんだ。
「石原さん、黙っていてすみませんでした」
「いえ、そのことはあの子が悪いのよ。川上さんが謝ることじゃないわ。すみませんね、変な子で」
  僕は、あんなにキレイなのに、人知れず傷ついているカナちゃんを愛おしいと思った。
  石原さんは僕に謝り、ホッとした様子で
「あの子は、川上さんに絵を見てもらいたいようです。これからも来て下さい」
と言ってくれた。
  その日はカナちゃんに会えなかったけれど、彼女の内面を理解できた気がした。
  僕は考えた。
<石原さんが僕を信頼してくれるのは、踏み切りの件があったからだ。それにしても、絵の知識もない、将来不安定な僕に、カナちゃんの話をしてくれた。どうしてだ?>
思いきって聞いてみることにした。
「僕は、アルバイトをしています。よくいうフリーターです」
「はい、知ってますよ」
「僕自身、将来のことは不安なんです。普通、ちゃんとした職についた男の方がいいに決まってます。でも、石原さんは違いますよね。なぜですか?」
石原さんは、笑顔でうなずきながら聞いてくれた。
「人は欲張りだからね、なんでも欲しがるんですよ。でも、仕事をしていると忙しいでしょう。息子もそうですからね。仕事があったって、カナちゃんを不幸にしてしまった。私はあの子を大切にしてほしいんですよ」
「そうですね」
「カナちゃんは、絵の知識があっても、知っていることだけをぺらぺら話す人はね、嫌いなんです。自分の感覚で受け止めて表現するのがセンスだと思ってますから。川上さん、あなたはそれができる人なの」
「あ、ありがとうございます」
石原さんが、僕を高く評価してくれるのが、うれしかった。僕は、何かを言わなければとあせって、頭の中で考えていたことを口に出してしまった。
「あの、石原さん。カナちゃんを甘いものを食べに誘ってもいいでしょうか?」
<何を言ってるんだ、僕は! 本人に先に話すつもりだったのに>
「あら! カナちゃんを誘ってくださるんですか? ありがとうございます」
「すみません、まだカナちゃんには聞いてないんです」
「まあまあ、そうですか。先に話していただいたんですね。ふふふ、私にはお土産話をお願いしますね」
気のせいか、おばあさんの目尻が下がったように見えた。
「石原さん、今度カナちゃんはいつ来る予定ですか?」
「あら、カナちゃんの携帯電話をお教えしましょうか?」
「あ、いえ。自分で聞きます。決まっていなかったら、また伺います」
「うふふふ。たぶん、明日来ますよ」
「じゃあ、夜に伺ってもいいですか?」
明日は1日中仕事の予定だ。
「遠慮なくどうぞ」
僕は、明日、カナちゃんを誘うと心に決めた。

 夜に石原さんの家を訪ねるのは初めてだ。何度も来ているのに、緊張する。玄関の前に立ち、チャイムを鳴らした。
「は〜い」
カナちゃんの声だ。
「川上です」
「ケイタ! どうぞ、入ってよ。描いてた絵ができたんだ!」
カナちゃんにせかされて、石原さんにあいさつも早々に、アトリエに行った。
「これだよ、見て」
「ああ、なんか日本じゃないみたいだね」
「じゃあ、どこ?」
「う−ん、南国のどこか。裸でいるのが相応しいところ」
「なんで?」
「こう、体が生き生きしてる感じでさ、踊りだしそうだ」
「それで?」
「なんか、見てると元気になるよ」
「そうか〜、元気になるか〜。他には? なんかない?」
矢継ぎ早に聞かれて、考えながら感じるままに答えていった。でも、ボキャブラリ−がなくて、言葉に詰まってしまった。
「なんだよ〜、他にないのかよ〜」
カナちゃんが催促する。
<そうか、カナちゃんはたくさん誉めてほしいんだな>
僕は気がついた。
「こんな絵が描けて、カナちゃんはすごいよ。僕だけじゃない、見た人みんなを元気にするよ。まだまだ描くんだろ? 全部見せてほしいよ」
「へへへ〜、そうか?」
「うん、ホントにすごいよ。裸もいいけどさ、他にも見てみたいよ」
「裸じゃなくて? ケイタは変わってるな! 男はみんな、裸が好きなのかと思ってたよ」
「え〜と、絵の話だろ? カナちゃんが描いたいろんな絵が見たいってことだよ」
「ふ〜ん、わかった。考えてみる」
絵のことに集中していたカナちゃんに、少し間ができた。僕は、この隙をついて何気ない振りをして聞いてみた。
「カナちゃん、今度、外に甘いものを食べに行ってみないか? ホテルのケーキバイキングとかさ。いろんなのが食べられるだろ? どうかな?」
「ケーキバイキング! うん、いいよ」
<え? 今、いいよって言ったよな?>
僕の頭の中でカナちゃんの返事が繰り返される。
「あ、おばあちゃんはどうしようかな。お土産があればいいか。うん、そうしよう。じゃあ、おばあちゃんに言っとかないと。ケイタ、下に降りよう」
カナちゃんに背中を押された僕は、顔がにやけてくるのを抑えられなかった。
<カナちゃんと僕は、これから始まるんだ。今までのことより、未来を考えよう!>
その時、僕はアビ−のことなんて、すっかり忘れていた。幸せいっぱいの男だった。

(了)


 



 

 

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