花筏の行方
向島 けい
あと数日も経てば、今年の見頃も終わるだろう。そう思いながら、真ひと知子は、ぼんやりと、桜の花を眺めていた。川の両側の並木からは、まるで桃色の雲が湧き出るように、見事な桜が咲いている。さほど大きな河ではないが、コンクリートの高い壁や川べりの遊歩道など、十分な護岸工事が施されていた。桜を楽しむ市民のために整備されたのである。
早番の業務を終えた真知子は、いつものように、川に架かる橋のまん中あたりで立ち止まった。欄干に寄り添うと、軽く手を伸ばし、開ききった花の房をたたえた枝を指先で触れる。すると、花びらが、数枚、みなもに向かって落ちていった。
三年前、ちょうどこの時期、同じこの場所で出会った男のことを、彼女は、思い出していた。運命の人? ソウルメイト? 一目惚れ? どの言葉も当てはまらないような気がするし、どの言葉も当てはまっているようにな気もする。
『今年も、また、来てる』
橋の上にいる男を見て、真知子はつぶやいた。帰宅途中の真知子から見て、右側、真ん中よりもやや手前に、前日と同じように、両肘をつき、欄干にもたれていた。
やわらかな日差しが、桜の花びらを白く浮かび上がらせる。開ききった花の房をたっぷりとたたえた枝が、風にゆれる。そっと、風が通り過ぎただけで、桜の花は、こらえきれないように枝から離れ、ひらひらと、舞落ちてくる。
ここ数日、男は必ず、この赤いアーチの橋で、一人たたずんでいた。細いストレートのデニムに、明るいグレーのスプリングコート。手には大きなカメラを持っていた。カメラマンなのだろうか。真知子は、毎日通るたび、男が躍動感あふれる動作で、深い堀に垂れ下がった桜を撮る姿を想像した。だが、カメラを構える仕草を、一度も、見かけた事はなかった。
その日から、真知子は、たびたび現れるその男に興味を抱くようになった。
休日の午後、夕暮れにはまだ早い時間に、彼女は川へ向かった。遠く澄み切った青空に、満開の桜が、入道雲のようにのびていた。橋の上は、花を仰ぎ見る幸せな笑顔でいっぱいだった。いつもの場所に、男がいた。
人をかきわけ、男の隣へ行った。男がどんなアングルを見つめているのか、知りたかった。
満開の桜の枝が、橋の下を超えて、河に向かって下がっている。川の流れはコンクリートの段差で、小さな滝を作っていた。
「カメラマンの方ですか?」
真知子は、視線をまっすぐ目の前の花に向けたまま、訊いた。
男は驚いた顔を真知子に向けた。
「あの、あっ、は、はい。」
あたりさわりのない会話をしているうちに、男は、落ち着きを取り戻した。
男は、自分を、荻原敏之と名乗った。
「去年も、ここにいらっしゃいましたね。」
かねてからの疑問を、ストレートに投げた。
「はい。今くらいの時間に、いつも。」
「それにしても、ちっともお撮りになろうとしないから。」
すこし当惑したような笑みを浮かべて、彼は言った。
「待ってるんです。」
「えっ?」
「何年か前、この場所でみた桜が目に焼き付いているんですよね。そのとき、カメラを持っていなくて。」
「そしたら、お持ちになってる時に、撮ったらいいのでは?」
「あのときと同じ、はっ、とするような光景がこないんです。同じ時間、同じ場所、同じ咲き具合、同じ気候を待っても、あのときと同じ桜は見えないんです。しかも、桜の花の一生は非常に短い。出会えなかったら、また一年、またなければいけない。人生のなかで、同じ一瞬って、ないのかもしれませんね。太陽の射し具合も違えば、風の向きも違う。そのうち、枝の形も違ってくる。一瞬を逃したということは、カメラマンとして、非常に大きな失態です。」
花びらがひらひら揺れ落ちる、遠くの川面を見つめて彼は言った。
その日をさかいに、二人で、河沿いの道を話しながら歩く日が続いた。川には、横切る通りごとに橋が架かっている。橋に出会うたび、真ん中まで出て、河にかかる桜を見た。
「花筏…。」真知子が、ささやくように言った。
「レアな言葉を知ってますね。」
敏之は、カメラのレンズを真下の川面に向けて、シャッターを切ると、話しを続けた。
「ご存知ですか? 桜の花は、雨や風では散らないです。もう精一杯咲いた、これでいい、と自分で判断したときに、ふっ、と落ちる準備をするんです。」
「かっこいいわ。まるで、短い自分の一生を知っているみたいですね。そう思って落ちたこの娘たちは、そこが河だと知ってたのかしら。まだ、何処に行き着くかわからないけど、それまで、他の花びらよりは長く、生き続けなければいけないのよ。」
そう言って、真知子は右を向いた。レンズの奥で、重いシャッター音がした。
そして、その日を最後に、敏之を見ることはなかった。
思い通りの写真が取れたのだろうか。それとも、何か良からぬことが身に降りかかったのだろうか。
思いは巡り、気が付くと、真知子は赤い欄干で待つことが多くなっていた。
その日、真知子は、早番のシフトを終え、会社近くのショッピングセンターで買い物をした。エントランスホールに、『桜フォトコンテスト』の垂れ幕とともに、壁に入選作品が展示されていた。
さっと見回した彼女は、ある一点の作品に釘付けになった。『私だ!』
その写真のフレームの中には、紛れもなく、真知子本人がいた。川面に向かって、絶え間なく降り続く淡い色の花びらを背景に、閉じた唇元を両頬に大きく広げるように笑みを作った自分がいた。
一瞬でいつの写真かわかった。
『笑ってたんだ。私、あの時』
『花筏』というタイトルと、敏之の名前が、脇にあった。
その下に、雪が降るように流れる花筏だけの写真を、小さくプリントしたものが、テープで止めてあった。
真知子は、その写真をめくった。電話番号が書いてあった。夢中でその番号をプッシュした。応対したのは、女性だった。
「はい、萩原です。」
「榊原真知子と申します。」
相手の女性は、一瞬の沈黙の間に、安堵と喜びの感情を加えた声で、
「真知子さん、あなたね。探してたのよ。ずっと。あなたがどんな人なのか、知りたくって。それで、あの写真を応募したのよ。必ず気がつくと思ったわ。」
彼女は,雪子と名のり、敏之の姉だと言った。
真知子との出会いの後、敏之は、オーストラリアに取材に行った。二年前の事である。
彼ののったボートが転覆し、知らせを聞いた雪子が現地に飛んだ。救助された敏之は、すべての記憶を失っていた。
日本に連れ戻し、雪子は彼の写真を整理していた。その中に、真知子が写っていた写真があったのだ、と彼女は足早に説明した。
「会わせていただけませんか?」真知子は頼んだ。
「やめた方がいいわ。自分の声すら出せない弟よ。あなたにショックを与えたくないの。あなたを探したのは、彼に会わせるため、という訳じゃないのよ。」
真知子は何度も懇願した。雪子は拒み続けた。容体が変ったら必ず知らせる、という事で、電話は切られた。
病室に戻った雪子は、上半身を起こし、じっと、窓の外を見ている敏之に向かって言った。
「真知子さんに会って来たわ。」
「それで?」
敏之は外を見つめたまま、訊いた。視線の先には、病院玄関のロータリーを横切る、真知子の後ろ姿があった。
「写真の印象と、ほとんど、変らなかったわ。何か、秘めた望みを追求する姿勢とコアがありそう。でも、思ったより、ふんわりとしたやわらかさを持ってる人ね。あなたが愛しそうな娘だわ。」
雪子はそう言うと、ベッドの脇のテーブルの上にある花瓶を持って病室を出ていった。しばらくして、自分で買って来た花を花瓶にいけて戻って来た。
「あなたの記憶は、まだ、もどってないと言っておいたわ。」
「他に、何の嘘をついた?」
「わたしが別れないって言ったら、あなたどうする?」
「もうその話は、とっくに、済んでるはずだ。彼女は関係ない。」
「十年も夫婦やってると、特に何も言わなくても、なにを考えてるのかわかるものね。」
ピンクのバラを花瓶から取って、茎の半分を鋏で切った。
「あの子が、もし、この感覚を超えるものを持っていたら…」
雪子は、棘のある茎を、左手で、握りしめた。
「…あきらめるわ。」
真知子は、赤い欄干で、現れるはずのない敏之を待った。何年かかろうと、自分で納得するまで、待ち続けようと思った。
生まれ変わる桜の花びらのように。散り行く時を感じる日まで。
低く落ちた太陽が、ビルの間から顔を出し、斜めの光をその隙間から放射した。川の流れは黄金の色をたたえて流れ出し、散り行く花を湛える枝を、包み込んだ。
『ねえっ、これ? これなの?』
真知子は、心の中で、無言の敏之に向かって問いかけた。そして、携帯のカメラにその光を納めた。
メールに添付して、聞いたばかりの雪子の電話に送信した。
翌日、真知子は橋の上でまんじりとしていた。笑顔で行き交う人々の中で、ぽつんと独り、違う色を発しているような感覚だった。
花筏は、昨日と同じ流れの中で、浮き沈みしていた。
携帯が鳴った。
メールの着信だった。真知子は、緩慢な動きで内容を確認した。添付された写真に、橋の真ん中の自分が写っていた。
真知子は驚いて、あたりを見回した。
前方に架かる別の橋で、携帯を持った手を振ってる女性がいた。かすんで小さくなって、わからないけど、きっと、雪子さんだと思う。
メールの本文は一行だった。
『敏之をよろしく。 姉より』
小さな雪子の側には、小さな車椅子の男性がいた。
(了)
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