荷物の中身
向島 けい
フェリーは夕刻に新潟港を出港した。新潟港から佐渡の両津港まで約1時間の航海である。
走航している間にすっかり日は暮れ、気がつくと、船室の窓には真っ黒な海を背景に、小雪が強い風に舞っていた。
まもなく着岸のアナウンスがあり、フェリーはその大きな船体を埠頭に寄せた。島の夜更けは3月のどんよりとした空の闇に覆われていた。船室を出ると、すでに、人が降りはじめていた。タラップに足をかけると、冷たい風が体を吹き抜け、頬に雪がささった。2等船室の乾いた暖房でむくみきった身体を引き締めるには、かえって心地のよい寒さだった。
いつもこうだ。
現役で臨んだ大学受験に失敗したとき。一年後、合格して帰ったとき。放蕩な大学生活の結果、留年が決まったとき。就職氷河期を理由に、たいした目標もなく、大学院への進学を決めたとき。ようやく決まった就職先がアメリカの会社で、数年間現地に滞在しなければいけなかったとき。その会社を辞め、独立をしたとき。
この時期に帰るとき、島はいつもこんな感じで僕を迎えていた。
そして今回も大切な話しを,両親に伝えなければならない。
ゲートの人ごみの最後尾に、母はいた。頭の白さは更に目立つようになったが、背筋をピシッとのばし、まっすぐ立っていた。
年々目が衰えていると聞いていた。近くに寄っていっても、しばらく、彼女は僕を認識できなかったようだ。気がつくと、ちょっとだけ驚いた素振りを見せ、いつもの駐車場に向かって歩き出した。目が見え辛いと言いつつも、平気で軽自動車を運転していた。
母は自営業で布団屋をやっていた。今でこそ、島でもディスカウントショップやスーパーで布団は売られているが、僕が子供の頃は布団屋に注文するのが常であった。使い続けてぺしゃんこになった布団の綿を、『打ち直し』と呼ばれる一種の再利用のプロセスでフカフカの綿に再生し、もとの生地または新しい生地でふとんを仕立て直す。島にはお年寄りがたくさんいて、孫の嫁入りには、必ず、本人が使っていたふとんの綿を打ち直し、祖母または母親が、旅立つ娘に贈るのである。古綿の打ち直しは、そのような古くからの風習をサポートする業務でもあったような気がする。
父は公務員だった。役所に勤務していたが島から出て働くことなく、数年前、定年退職した。口数の少ない父は、母に何かを意見する事は皆無だった。僕には、そんな彼をさめた目で見ていた時期もあった。
母は常に厳しかった。小学校に入った頃から、問答無用で、ホコリだらけの打ち直しの工場に、防塵用の物々しいマスクをさせられて放り込まれ、見よう見まねで手伝わされた。古綿の山は削っても削ってもいっこうに変わりのない氷山のように、終わりのない作業を見守っていた。工場を手伝わない時は、弟と一緒に夕食の支度をした。はじめの頃は、なれない包丁で散々手や指を切っていた。今でもその痕は、くっきり、残っている。
高校を卒業して、島を出た。仕送りをされて大学に通っていた。正月、帰省するときに、母にちょっとした東京土産を買って帰ったときがあった。喜ぶ顔を思い浮かべながら渡した時の母の反応は、「人が苦労して送ったお金で、こんなもん買ってくる、その神経が許せん。」と本気で怒っていたのが現実だった。やりきれない気持ちでいっぱいだった。
当時、東京へ帰京する度に母は、食材や魚、あらかじめ作ってあった惣菜などを両手でやっと持てるくらいの量の紙袋やバッグに詰めて、僕に持たせた。大荷物を船や汽車に持って入ることは嫌いだった。あくせくと持って歩く姿や、魚や惣菜の匂いがあたりに広がるのが「格好わるい」と思っていたし、事実、友達と一緒に帰るときには恥ずかしかった。あまりの恥ずかしさに、持たずに置いて帰ったときもあった。
今回帰る前に、僕は、両親に宛てて手紙を出していた。これからその話しを切り出さなければいけない。居間に着いて落ち着くと、とてつもなく重い空気が、溶岩のように固くなって、胸から口に迫り上がってくる。
いつもこうだ。崖っぷちに立っている。過去何度も、このまま落ちてしまいたいと本気で思った。覚悟を決めて話し始めた。
「手紙のとおり。結婚したい人がいるんだけど。。」
しばらくして母は、ゆっくりと、口をひらいた。
「許しませんよ。」
「...」
「あんた長男でしょ。親戚に対して生きてるのか死んでるのかわからない、血の通わない、連絡の取り方をするざまをして。年をとれば楽が出来ると思ってずっと頑張ってきたけど、ちっとも楽になる訳じゃ無し。近所のひとには孫をつれて散歩に出てる姿を、いつも、みせつけられて...。
目の色の違う人が、土地も国も違って親戚付き合いもろくに出来ないような人達を受け入れられるわけがないじゃないの。なんのために、いままでこんなに働いてきたと思っているの。」
まるで言い掛かりだと思った。また、これほど封建的な思想が、まさか自分の身内から、あからさまに現れることに、驚きとともに、絶望を感じてしまった。
「差別だよ。東京や海外でも、今時そんなこと言う人いないよ。」
「ここは、東京じゃない!」
押し問答が繰り返されたが。話は平行線のままだった。母も僕も、頑固なものが、そっくり表面に表れていた。最初はそれが悲しくて、母に憐れみさえ感じた。しかし、衰える事のない口調の厳しさに、急に腹が立ってきた。
僕は無言でその場を立ち去り、そこで話し合いはぷっつり終わった。
翌日、東京へ戻るフェリーの時間が迫っていた。
母は、「おにぎり、入れといたから、もってきや。」っと言って大きな紙バックを玄関に置き、仏頂面のまますぐに台所へ引っ込んだ。紙バッグはずっしりと重かった。
埠頭まで歩いていった。父が荷物をもって埠頭まで付いてきてくれた。僕は、母の時代錯誤甚だしい科白を思い出し、繰り返し愚痴った。父は、黙って聞いていた。暫くの沈黙のあと、父は云った。
「まあ、そんなこと云うな。俺なんかいまだに我慢しとる。」
笑っていた。その笑顔はそのまま僕を見送ってくれた。
帰りの新幹線で袋の中を開けてみた。キムチや漬け物、佃煮の匂いと一緒に、ご飯にまいた海苔の匂いが目の前に広がった。いや、ほぼ満員の車輌いっぱいに伝搬していたかもしれない。発砲スチロールのタッパ2つに分けられて入っていたおにぎりは、白いご飯が見えないくらいの海苔で覆われていた。一個手に取り、一口、食べた。数十年前、恥ずかしいと思っていた味と匂いがそのまま口の中に広がった。
これを大切な人に食べさせたいと、咄嗟に、思った。食べかけのおにぎりを台に置いて、タッパにふたをして、もとに戻した。懐かしい匂いが車輌に充満した。周囲の目が一斉に、目の前の台の上のおにぎりに注がれているようだった。恥ずかしくもなんともなかった。座り直して再びおにぎりを手に取り、二口、三口と口に入れた。噛むたびに車輌の外の雪景色がぼんやりとして、ほどなく、ホワイトアウトした。
東京駅に到着した。ホームからエスカレータに人の流れに沿って降り、新幹線の改札出口へ向かった。くり色の髪を綺麗に後ろに束ねたキャロルが、そこに、待っていた。キャロル・ピンチ、僕が生涯を共に過ごして行くと決めた相手。
「Shinji?!」
僕を見つけた彼女は、僕の名前を呼んで駆け寄り、ぶつかるように首筋に両腕を回した。
「どうだった? あなたのマミー喜んでたでしょ?」
彼女の育ちを物語るかのように、そこぬけの明るさで彼女は英語で訊いた。
「ああ、大喜びだよ。」
僕は答えた。
東京近郊の私鉄の駅で僕たちは降りた。マンションへの帰り道、駅前をとおり緑道に入ると、高い建物が減って空が少し広がって見える。春を迎えるこの時期、ここ東京でも明るい星がパラパラと目に入った。
「見て、日本への招待状。サンフランシスコのパパとママに送るのよ。」
彼女は大きめの海外向けのカードをひらいて僕に見せた。真ん中にポップアートで『I Love You, Mom & Dad』と描いてあった。
「ねぇ、慎次。I Love You を日本語で云って!」
その程度の日本語は疾うの昔に知っているくせに、わざと彼女は訊いてきた。そのまま空を見上げて僕は云った。
「ホシガキレイって云うんだよ。」
期待した言葉を返してもらえなかった彼女はきょとんと首を傾げて、不審そうに僕の顔を覗き込んだ。
(了)
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